今日の音楽とリオタールの芸術論―論述の可能性とその限界―
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ジャン=フランソワ・リオタール(Jean-Francois Lyotard 1924-1998)の思索活動において,美学, そして現代芸術は重要なキーワードであった。しかしながら,美学,そして現代芸術――殊 に音楽――にとって,現代思想を語る上で欠かせないこの哲学者の名前は必ずしも重視されているとは言え ないようだ。70年代から80年代にかけて,芸術の 領域でも盛んに叫ばれたポストモダンについても, リオタールが展開した議論を踏襲して語られたものはそう多くはない。 本稿は,西洋合理主義批判を展開するリオタールがポストモダンという言葉で考えていた機構の打破 と逸脱という考え方に注目し,芸術に関する彼の論述でそう した筋書きがどのように展開されたの かをまとめていく。機構の打破という戦略が抱えるいくつかの問題点を探るとともに,リオタールが 求めた柔軟さや軽やか さの理想を踏まえながらリオタールのポストモダン論を展開し,後半では, 具体的な作家や作品を実例として挙げ,今日,ある種の音楽活動を論じる際のリオ タール芸術論の 利用の可能性を探ろう。 第1章の第1節ではリオタールの論述の筋道を明確にするため,彼のポストモダン論とはどのような ものであったかまとめる。「1.物語の失墜」では大きな物 語とその失墜というリオタールのポス トモダン論における重要な概念について,「2.批判――脱正当化」では,西洋近代の学知の権威や 正当性を疑い脱正当化 して行くリオタールの手法について,「3.展望――ポストモダン」ではそ の学知を打ち破る積極的姿勢としてのリオタールのポストモダンとは何かについてま とめる。さら に「4.逃走というイデオロギー」では,リオタール自身が出生状態のモダニズムとして考えていた そのポストモダン論に隠されている,イデオロ ギーからの逃走や逸脱というイデオロギーについて 指摘を試みた。 第1章の第2節では彼の芸術に関する論述の特徴をまとめる。「1.フロイトから,あるいはフロイ トへ」ではリオタールの論述の骨組みとも言えるフロイトの 諸理論の受容と展開についてまとめ, 「2.現代芸術へ」では,芸術について論じるリオタールのその射程を明らかにする。「3.呈示し 得ないものと逸脱」で は,機構を打ち破り,理性的に把握しがたいものを取り入れようとするリオ タールの論が抱えるアポリアと,それを解消する“呈示し得ないものの存在を呈示す る”という考え 方について,フロイトの無意識の理論を参照しながらまとめていく。 続く第2章の第1節において,いよいよリオタールの音楽に関する記述を読み解いていく。第1章の 内容を踏まえながら,「1.音楽の機構」ではリオタールが 論じた機構としての音楽とは何である か,歴史的視点を交えながら説明する。「2.リオタールの音楽論」では,リオタールが機構を打破 する音楽を評価し,論 じていたこと,そしてその姿勢がこれまでと同様,やはり近代合理主義批判, 理性批判という意図に基づいて築かれたものであることを確認する。 第2章の第2節では,リオタールの論述を客観的に見つめ,これまでの論述で明らかとなったいくつ かの問題点を確認し,そこに新たな視点や姿勢を付け加え展 開を図るため,リオタールが称揚した のとは異なる態度や作品例を持つもう一つのポストモダン,折衷主義―ポストモダンについて考察す る。折衷主義―ポスト モダンの論者達とリオタールのポストモダン論との間の相違点や共通点を探 ることによって,リオタールの議論を踏まえて展開される続く章での具体例の考察 に,さらなる柔 軟性や軽やかさが付加されることを狙った。 第 3章の第 1節では,ジョン・ケージ(John Cage 1912-1992)に関するリオタールの論述を再考し, リオタールが指摘しなかったケージの側面について触れる。さらに第2節ではフランスの 作曲家, リュック・フェラーリ(Luc Ferrari 1929-2006)の活動を論じる。フェラーリはリオタールと同世代 であり,リオタールのポストモダンの考え方に最も近い態度を取り続 けた作曲家の一人であるよう に思うが,不思議なことにリオタールはフェラーリについて論じていない。本稿ではフェラーリの個 性的な活動を紹介しながら,リ オタールの論述とフェラーリの姿勢との共通点を探っていく。そし て第3節では,日本の鈴木治行(1962-)の活動を取り上げる。鈴木は60年代に生まれ た新しい世代 の作曲家であるが,音楽にとって様々な面で問題提起的な作品を生み出し続けている。彼の作品にお ける逸脱や機構の打破の要素に注目するととも に,関係性の追及という彼独自のスタイルが生む, 統一的理念に集約されるのでも,相対主義的な個人主義に行き着くのでもない新しい形態を紹介し, 枠組みを 解体し,既存のコンセンサスに回収されないポストモダンの音楽における今日的な姿を呈 示したい。
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